こんにちは、定職就かずのお気楽旅人、チェルです!
当サイトでは、バックパッカーとして世界中を一人旅してきた筆者が、リアルな旅の体験や、これから旅する方に役立つ情報をシェアしています。
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そんな思いを抱える方にピッタリな内容をお届けします。
今回のポーランド一人旅では、古都・クラクフを拠点に負の遺産・アウシュビッツ強制収容所を訪問しました。
実際に訪れて感じたことや、現地の様子、見どころについて詳しく振り返ります!
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ぜひ最後まで読んで、ポーランドの魅力を発見してください。
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ポーランドってどんな国?
ポーランドは、中央ヨーロッパに位置する美しい国です。
北はバルト海に面し、ロシアのカリーニングラード州やリトアニア、ベラルーシ、ウクライナ、チェコ、スロバキア、ドイツと国境を接しています。
豊かな歴史と文化が息づくこの国は、海外旅行や一人旅にぴったりな場所です!
※参考:外務省 ポーランド基礎データ
この国には、歴史的価値の高い観光名所が数多く点在します。
たとえば、首都・ワルシャワの旧市街や、世界最大の煉瓦造りの城・マルボルク城、負の遺産・アウシュヴィッツ強制収容所(正式名称:アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所)などです。
世界的に有名な作曲家、フレデリック・ショパンや、人類史上初の2つの異なる部門でノーベル賞を受賞したキュリー夫人の出生国でもありますね!
ポーランドの国名はポーランド語で「ポルスカ(polska)」と呼ばれ、平原を意味する「POLE」が語源とされています。
その名前の通り、国土の大半は平原が広がり、美しい自然が特徴です。
バルト海沿岸の砂丘や原生林、砂岩の浸食によって形成されたトウォヴェ山脈国立公園など、多様な自然景観が楽しめます。
ポーランドを訪れるなら、地元のグルメも外せません。
中でも、さまざまな具材を包み込んだポーランドの伝統料理・ピエロギは、ぜひ味わいたい名物料理の一つです!
実は親日国!
ポーランドは、日本ではあまり知られていないですが、実は世界有数の親日国です!
その背景には、約100年前にさかのぼる深い歴史があります。
ポーランドは、1795年から123年間、周囲の大国によって分割され、国としての存在を失っていました。
独立を目指した多くのポーランド人が反乱を起こしましたが、彼らは政治犯としてシベリアへ送り込まれ、過酷な強制労働を強いられることに。
その後、第一次世界大戦が終結した1918年、ポーランドはようやく独立を回復。
しかし、シベリアはロシア革命から続く内戦状態にあり、シベリアに取り残されたポーランド人たちは依然として苦しい状況にありました。
そんな中、ポーランド人たちは世界各国に救助を要請し、最も積極的に手を差し伸べたのが日本だったのです。
日本は、シベリアから救助した760人あまりのポーランド孤児たちを受け入れ、日本の地で静養させた後、ポーランドへ送り返しました。
この出来事を通して、日本とポーランドの間には深い絆が生まれました!
約100年を経た現在も友好関係は続いており、2024年にはシベリア孤児来日100周年記念式典が東京で開催されました。
ポーランド一人旅の目的
今回のポーランド一人旅の主な目的は、アウシュビッツ強制収容所を訪れることでした。
アウシュビッツは、クラクフからバスで約1時間半の場所にあるオシフィエンチム(Oświęcim)という町に位置します。
そのため、今回の旅ではクラクフを拠点にし、アウシュビッツ強制収容所への訪問を計画しました。
首都・ワルシャワからのツアーもありますが、距離が遠いため、クラクフを拠点に移動するのがおすすめです!
ポーランド・クラクフ一人旅での旅程
前回の旅先であるポーランド・ワルシャワから、次の目的地クラクフまでは、FlixBusを利用しました。
移動時間は約3時間半で、料金は11€(ユーロ)(記事執筆時点で約1,800円)。
バスは定刻通りに到着し、移動も順調!
車窓から見えるポーランドの美しい景色を楽しみながら、あっという間にクラクフへ到着しました。
クラクフに到着したら、歴史ある街並みや世界遺産に登録されている旧市街を散策しつつ、アウシュビッツ強制収容所への訪問に備えました。
古都・クラクフの魅力
クラクフは、ポーランド南部に位置する歴史ある都市です。
起源は明確ではありませんが、10世紀ごろからその存在が記録されており、11世紀から16世紀にかけてポーランドの首都として繁栄していました。
クラクフは古くから多くのユダヤ人が住んでいたことから、周辺地域に比べて文化的に発展した都市でもありました。
しかし、第二次世界大戦中にはドイツの占領下に置かれ、アウシュビッツ強制収容所など、ユダヤ人収容所が設けられた悲劇の地でもあります。
そんな悲しい歴史を持つクラクフですが、旧市街は第二次世界大戦の戦禍を奇跡的に免れ、現在でも中世の街並みがそのまま残されています。
そのため「町並みと建築物が素晴らしいだけでなく、歴史地区は現在に至るまで中世の町並みを残しつつ発展していった」という点が評価され、1987年に世界遺産の最初の12件の一つして、「クラクフ歴史地区」が登録されました。
クラクフ歴史地区が登録された1987年には、以下の世界遺産も一緒に登録されました。
クラクフを観光
クラクフ歴史地区には、数多くの観光スポットが点在しています。
歴代のポーランド王が居住した旧王宮や、約400年間にわたりポーランド国王の戴冠式が行われたヴァヴェル城、ヨーロッパ最大級の広さを誇る中央市場広場など、見どころが満載です。
特に有名なのが、旧市街にある中央市場広場。
この広場はその広さだけでなく、14世紀から存在する織物会館や、圧倒的な存在感を放つ聖マリア聖堂といった歴史的な建造物が立ち並び、訪れる人々を魅了します。
織物会館は、中央市場広場の中心に位置し、約100メートルの長さを持つ細長い建物。
かつてこの場所では布地や絨毯などが取引されていたため、その名前が付けられたそうです。
現在では1階部分にかわいい雑貨や、織物をあつかうお土産物屋が並びます。
2階は博物館になっており、観光の合間に立ち寄れるオシャレなカフェや、レストランもあります。
聖マリア聖堂は、13世紀に建てられたゴシック様式の教会です。
高い2つの塔が特徴的な外観で、荘厳な雰囲気が漂います。
内部は、鮮やかな色の壁や天井に彩られ、ピンクやブルーを基調とした細かな装飾が施されていました。
木彫りの祭壇には、使徒に囲まれた聖マリアの姿があしらわれ、背後には、幻想的な光を放つ美しいステンドグラスが輝きます。
クラクフからアウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所までの道のり
クラクフから、アウシュビッツ強制収容所の位置するポーランド南部の都市・オシフィエンチムまでの交通手段は、主に3つあります。
- 列車
- バス
- 車
クラクフからアウシュビッツ強制収容所までのシャトルバスも運行されていますが、非常に混雑することが多いです。
そのため私は、列車を利用しました。
クラクフ中央駅からオシフィエンチム駅までは、列車で片道約1時間。
料金は15zl(ズウォティ)(記事執筆時点で約550円)でした。
チケットは、クラクフ中央駅構内にある窓口で購入できます。
目的地を伝えると、空いている時間帯を紹介してくれるので親切です!
座席は自由席なので、特に指定する必要はありません。
クラクフ中央駅は改装されたばかりのようでキレイでした。
また列車も、外観と内装がとてもキレイで、空調も効いているため移動中も快適に過ごせました!
オシフィエンチム駅に到着したら、アウシュビッツ強制収容所までは約2キロメートルの距離。
交通手段は、主に以下の2つが利用できます。
- バス:約10〜20分
- 徒歩:約20〜30分
私は、オシフィエンチム周辺の街並みを見たかったため、徒歩で向かうことに!
道中には閑静な住宅街や、マンションなどが建ち並んでおり、ポーランドの日常風景を感じられました。
アウシュビッツ強制収容所について
アウシュビッツ強制収容所(正式名称:アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所)は、第二次世界大戦中にナチス・ドイツによって建設された最大規模の強制収容所です。
3つの大規模な強制収容所から構成され、火葬場やガス室、絶滅収容所、強制労働収容所、没収品を保管する倉庫などがありました。
この収容所には、ユダヤ人をはじめとする多数の人々が収容されていました。
- 政治犯:ナチスに反対する活動を行った人々で、最も多かったのはポーランド人。
- 敵軍捕虜:戦時中に捕虜になった人々で、特にソ連軍兵士が多く含まれます。
- 教育囚人:労働規制を破った人々。
- 逮捕された者:警察に逮捕されたのは主にポーランド人。
- 刑事犯:主にドイツ人。
- 宗教者:宗教的な理由によって迫害され、収容された人々。
- 同性愛者:ナチス政権下で禁止されていたため、収容の対象となりました。
- 身体・精神障がい者:差別や迫がいの対象となり、人権がほとんどありませんでした。
- かくまった者:上記対象者をかくまった人々。
ユダヤ人とは、ユダヤ教を信仰する人や、その子孫を指します!
アウシュビッツ強制収容所では、強制労働や人体実験、虐殺など、数々の非人道的な行為が行われました。1940年から1945年にかけて、約150万人がこの収容所でホロコースト(大虐殺)の犠牲となったと言われています。
しかし、そのあまりの惨状から正確な数は明らかではありません。
アウシュビッツ強制収容所の建設にいたる経緯
アウシュビッツ強制収容所が生まれる背景には、長い歴史にわたるユダヤ人に対する差別や迫がいが関係しています。
中世において、ユダヤ教から生まれたキリスト教が独自に発展し、ヨーロッパに広まっていくと、少数派となったユダヤ教徒は、宗教や文化の違いを理由に、差別を受けるようになりました。
これがやがて反ユダヤ主義として根付き、世界各地でユダヤ人への差別が広がっていきました。
時代は変わり、第一次世界大戦で敗戦国となったドイツは、多額の賠償金を負い、経済が不安定な状況に陥りました。
また、1929年の世界恐慌で失業者が急増し、国民の間で不満や不安が限界寸前に。
こうした状況下で、国民から圧倒的な支持を集めて登場したのが、ヒトラー率いるナチス党でした。
ヒトラーは、「このような状況になったのはユダヤ人のせいだ」と主張し、国民の不満をユダヤ人に向けることで支持を拡大していき、1933年にヒトラーが政権を掌握。
その後、戦時中の労働力を確保するため、ユダヤ人や政治犯、捕虜などに強制労働を課す目的で、1940年にアウシュビッツ強制収容所が建設されました。
ヒトラーが、これほどまでにユダヤ人に憎しみを抱いていたのか、正確な理由は今もなお不明です。
ただし、彼が若いころに反ユダヤ人思想に触れていたことが、きっかけの1つだったのではないかとも言われています。
アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所を訪れて感じたこと
負の遺産として知られるアウシュビッツ強制収容所は、現在博物館として一般に公開されています。
負の遺産には、アウシュビッツ強制収容所のほかに、広島県の原爆ドーム、アメリカのビキニ環礁、セネガルのゴレ島などがあります。
私がこういった歴史に初めて触れたのは、高校時代に修学旅行で訪れた広島県の原爆ドームと、広島平和記念資料館でした。
しかし、当時の私は、その悲惨さに圧倒され、展示物から目を背けてしまっていました。
数年後に長崎県の長崎原爆資料館を訪れた際にも、やはり直視できず、受け止めきれない自分がいました。
そうした経験から、約10年後の今、「今度こそは、過去の出来事から目を背けずに受け止める」という覚悟を決めて、アウシュビッツ強制収容所を訪れることにしました。
歴史をしっかりと学びたかった私は、アウシュビッツ強制収容所で唯一の公式日本人ガイドである中谷剛さんにガイドをお願いしました。
とても著名な方で、ガイドの予約は事前に行うのがおすすめ。
遅くとも、訪問予定の1週間前には連絡を入れておくと安心です。
私は、1週間前に連絡をし、なんとかギリギリでガイドツアーに参加できました!
予約は、専用のぺージがないため、メールでのやりとりになります。
中谷さんのガイドツアーは約3時間。
ガイド料と入場料を含め、料金は150zl(約6,000円)でした。
※訪れる時期や時間帯によっては、入場の際にガイドの同行が必須となる場合があるのでご注意
※私が訪れた2024年6月29日 14:00ごろはガイド同行が必須でした
入場時には、常に入国審査並みの厳しい荷物検査と、パスポートおよび身分証明書の提示が求められます。
厳重なセキュリティの理由は、テロ対策のためとのこと。
収容所の過去の歴史もあり、テロの可能性を考慮して、収容所内のいたる所に防犯カメラが設置され、厳戒態勢で毎日警備をしているそうです。
入場審査を終えると、ヘッドフォンを装着し、ガイドツアーが始まります!
なお、アウシュビッツ強制収容所には第1から第3収容所までありますが、現在、ツアーで見学できるのは第2収容所まで。
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アウシュビッツ第一収容所を見学
こちらは、入場審査をした入口から収容所内へと続く通路の写真です。
この通路には、監視カメラとスピーカが設置されていました。
スピーカーからは、戦争で亡くなった市民や軍人の名前が読み上げられていて、この時点ですでに私は涙目に。
通路を抜け、少し進むと、教科書でも見かける有名な看板が見えてきます。
この看板には、「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になれる)」と書かれています。
しかし悲しいことに、収容されたほとんどの人がこの言葉通りにはならず、命を落としました。
看板の文字に注目すると、「ARBEIT」のBが逆さまになっているのが分かります。
これは一説によると、労働者が看板を作成する際に、せめてもの抵抗の印として意図的に逆さにしたと言われています。
【閲覧注意】画像をクリックすると、モザイクが消えます。
看板のすぐそばには、収容者の逃亡を防ぐために張り巡らされた二重の有刺鉄線が。
夜間はライトで照らされ、24時間体制で監視が行われていました。
こちらは、収容者が当時植えた白樺の木です。
かつて景観づくりのために植えられた苗木が、今ではここまで立派に成長したそうです。
当時の収容者たちが住んでいた建物は、現在では展示施設として利用されています。
80年近く経っているため、維持するのも大変なんだそう。
展示施設内には、収容者たちが持ち込んだ荷物や、履いていた靴、顔写真、散髪された髪の毛などの実物が展示されています。
私は、この辺りで心が耐えきれなくなり、途中で建物から出て休憩をとりました。
少し見えにくいですが、木の間から見えるオレンジ色の屋根の建物は、アウシュビッツ強制収容所の所長一家の住居です。
収容所と同じ敷地内に建っており、奥さんと2人の子供、数人の使用人が暮らしていました。
庭には趣味のガーデニングや、プールまであったそうです。
驚くべきことに、家のすぐ近くにはガス室と焼却炉があり、煙突から毎日煙が上がっていました。
それでも所長一家は、何ら変わらない日常を過ごしていたという事実には衝撃を受けました。
この家族が、どのような思いで生活していたのかはわかりませんが、戦争が人間をここまで変えてしまう現実を、改めて突きつけられた気がしました。
余談ですが、2024年3月に、この所長一家を題材にした映画『関心領域』(原題:THE ZONE OF INTEREST)が、第96回アカデミー賞で国際長編映画賞を受賞しました。
この映画は、一家の感情や環境、人間模様をメインに描いており、収容所内の出来事にはあまり触れられていませんが、気になる方は観てみて下さい。
私は帰国後すぐに鑑賞し、アウシュビッツ強制収容所で感じたことや学んだことをより深く理解できました。
アウシュビッツ第二収容所を見学
この門は、通称「死の門」と呼ばれる、アウシュビッツ第二収容所の入り口にある駅舎です。
第二収容所は、第一収容所が収容者であふれたため、1941年にブジェジンカ村に開所。
敷地面積は1.75平方キロメートル(東京ドーム約37個分)にもおよび、当時は約300の建物が並んでいました。
収容能力は約10万人で、第一収容所から約2キロメートル離れた広大な平野に建てられました。
当時、ガス室や人体実験を行うための施設もありましたが、戦争終結前にナチスによって証拠隠滅のために破壊されました。
そのため、現存している建物は限られています。
この収容所のホームで到着した人々は、全ての荷物を没収された後、専属の医師による選別を受けました。
医師たちは、収容者を働ける者と働けない者、人体実験の被験者に振り分けました。
働けると判断された者は、過酷な強制労働を強いられ、働けないとされた者は、収容所内の4つのガス室のいずれかに送られたそうです。
この収容所には、『アンネの日記』で有名なアンネ・フランクも一度収容されました。
彼女はオランダからの最後の列車で家族とともにこの地へ送られ、その後、別の収容所で命を落としました。
(アンネ・フランクについては後述)
収容所内の居住区は、性別や職務内容、年齢などによって分けられていましたが、いずれの区画も過酷な生活環境でした。
写真にあるような狭い空間に、数多くの人々が詰め込まれ、極限状態での生活を強いられていました。
老朽化が進むこれらの建物は、現在では少しずつその数が減少しているそうです。
これらの悲劇を引き起こしたのは、私たちと同じ人間。
そして、それがたった80年前に起きたという事実が、あまりにも恐ろしい。
戦争がもたらした恐怖と、人間の非情さを改めて実感させられました。
こちらはアウシュビッツ収容所から生還した方の本です。
一度読んで見ると、この悲惨さがよくわかると思います。
【番外編】アンネ・フランクについて
アンネ・フランクは、1929年6月にドイツのフランクフルトで2人姉妹の妹として生まれました。
当時のドイツは深刻な不景気に見舞われ、人々の生活は困窮していました。
こうした状況の中で、ヒトラー率いるナチス党が勢力を伸ばしていき、国のトップに。
ナチスは、「ドイツが抱える問題はユダヤ人のせい」と歪んだ思想のもと暴走していきます。
アムステルダムでの平穏と戦争の影
ナチスの動きや経済的な困難を受けて、アンネの両親はオランダのアムステルダムへの移住を決意。
アムステルダム移住後の数年間、アンネは友達と遊んだり、近所の学校に通ったりと、穏やかな日々を過ごしていました。
しかし1939年、アンネが10歳のときにナチス・ドイツがポーランドへ侵攻し、第二次世界大戦がはじまります。
1940年には、ナチス・ドイツがオランダにも侵攻し、わずか5日後にオランダは降伏。
その後、ナチスはユダヤ人に対するさまざまな差別政策を導入し、ユダヤ人は娯楽施設や商店に出入りできなくなったり、「ユダヤの星」の着用が義務付けられたりと、ユダヤ人の生活は次第に制限されていきました。
状況の悪化を受け、アンネの父であるオットーは会社の同僚の協力を得て、事務所の裏に隠れ家を作ります。
ナチスに知られないよう、物音を立ててはいけない怯えながらの生活が始まりました。
隠れ家での生活と日記の始まり
アンネがまだ隠れ家へ移動する前の13歳の誕生日にプレゼントされた日記帳が、後に世界中に知られる『アンネの日記』となります。
ラジオで「戦時中の日記や書類を保存しておくように」と呼びかける声を聞いたアンネは、日記を「後ろの家」というタイトルで執筆し始めました。
この日記は、隠れ家での約2年間の生活で、彼女の感じたことや考えたことが記されています。
また、アンネが将来作家か記者になりたいという夢や、隠れ家での体験を本にする計画が書かれていました。
ほかにも、短い物語や小説、読んだ本の一節なども綴られており、アンネにとって日記は唯一の楽しみでもありました。
隠れ家での生活は、1944年8月4日に終わりを迎えます。
アンネ一家と、隠れ家に関わった人々はナチスの警察により逮捕されました。
逮捕の原因は現在でも解明されていませんが、誰かの密告が関わっていたのではないかとも言われています。
『アンネの日記』の出版
警察がアンネ一家を逮捕したにも関わらず、アンネの日記は処分されませんでした。
隠れ家のものが処分される前に、オットーの同僚たちが密かに持ち出したからだそうです。
日記は後に、家族の中で唯一生き残ったオットーの手に渡されます。
彼はアンネの願いを叶えるべく、また友人たちのすすめもあり、1947年に『アンネの日記』を出版しました。
その後、『アンネの日記』は世界中で大ヒットし、約70カ国に翻訳され、累計発行部数は約2500万部を超えるベストセラーに。
2009年には、「世界の記憶(記憶遺産)」にも登録され、今もなお多くの人々に影響を与え続けています。
ポーランド一人旅を振り返って
いかがだったでしょうか。
今回のポーランド一人旅では、アウシュビッツ強制収容所を訪れ、歴史と真摯に向き合い、人種や宗教、そして考え方によって国や人々がどれだけ変わりうるのかを改めて学びました。
自分にとって当たり前の行動が、他者からすれば受け入れがたいこともある——そんな気づきを得られた旅でした。
世界は今、さまざまな変化に直面しています。
このような過去の歴史を振り返りながら、私たちは自分自身の行動や、思考を見つめ直すことが必要だと感じます。
過去を知り、学び、それを未来にどう生かすかが重要です。
次回は、ヨーロッパ一人旅の最後の地・ハンガリー。
これからもリアルな旅の様子や、旅に役立つ情報を発信していきますので、ぜひお楽しみに!
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